川崎尚之助を知る

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山本八重の最初の夫川崎尚之助(しょうのすけ)は出石(いずし)藩出身

八重の最初の夫となる男性は、意外にも出石藩の出身者でした。平成24年(2012)の5月頃、歴史研究家のあさくらゆうさんたちの史・資料調査によって次第に明らかになってきたことです。川崎尚之助の出自や人物像がわかる記録は、八重自身や再婚相手の新島襄に比べるとほとんど無い状況でしたから、なかなか出石と結びつかなかったわけです。
  尚之助は天保7年(1836)に出石の本町に住む川崎才兵衛の子として生まれます。川崎家は出石藩士の家柄ですが、けっして高い身分ではなく、跡取りでもない尚之助はおそらく苦学しながら学問で身を立てるための精進をしたのでしょう。成長後は江戸の大木仲益(後の坪井為春)などの高名な塾で蘭学や舎密学を学び、有能な洋学者として知られていたのです。
  八重の兄である山本覚馬と塾で出会ったことが、会津藩ひいては八重との結びつきになります。尚之助が、若くして洋式銃や兵法書の翻訳などに通じていたことが会津藩砲術指南の跡取りだった覚馬の目にとまったわけです。
  こうした縁あって尚之助は、会津に招聘されるごとく、山本家の居候として八重の実家で暮らし始めます。藩校の日新館で蘭学を教授し、銃器・弾丸の製造指導にも知識を発揮したようです。八重との結婚は慶応元年(1865)で、尚之助29歳・八重21歳の時でした。

会津藩に命を捧げた男

  ところで世情は、尊王攘夷派と幕府側の対立が極限まで高まっている頃。会津藩侯の松平容保は京都守護職として上京しており、禁門の変では覚馬も砲兵隊を指揮して負傷を負いました。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、覚馬も薩摩軍に捕えられ、加えて弟の三郎は、負傷したのち江戸で息を引き取るという受難の年でした。
  白虎隊の悲劇で知られる会津戦争時、新政府軍が勢いに乗って「討伐」に迫る会津城下の攻防戦で、八重の父権八も戦死。追い詰められた藩は鶴ヶ城(会津若松城)の籠城戦で絶体絶命の最終戦を迎えます。   このとき八重と尚之助は、ともども砲術の才を発揮し、指揮を執って奮戦します。とくに八重は戦いやすいように断髪までして、洋式銃を手に腕前を披露したことが伝わっています。籠城の奮闘むなしく、圧倒的な勢力の官軍(新政府軍)の前に開城を迎えることになりますが、尚之助も藩のために最後まで戦ったことは間違いありません。もともとの会津藩士ではない彼ですが、義と縁を重んじる一途な性格がうかがえます。

晩年の事実

  鶴ヶ城の開城後、元藩主は謹慎・蟄居し、実子が家名存続を許されたものの所領23万石は没収されます。代わって僅か3万石の領地が、極寒の地であった下北半島の一画に与えられました。それが斗南(となみ)藩(現青森県東部)です。想像を絶するほどの厳しい風雪、また食物の不毛な地でした。
  尚之助は、これまでの流説によると開城前後に行方不明となり、八重と離れ離れになったとされ、ひどいものでは混乱のさなかに逃亡したというような見方もありました。
  ところが実は、降伏後の収容・謹慎期間を経て、他の元会津藩士とともに斗南に移住していました。もちろん八重とは接触しようもなく、音信不通の状態であったことは確かでしょう。しかし彼は、厳しい地で同志たちの生活の糧を得るために涙ぐましい献身を貫き通します。米はもちろん豆類も得難い土地環境の中で、彼が身をかけて奔走する心情が「飢餓傍観できず」という熱い想いだったのです。
  結局彼は、仲間たちの飢えをしのぐ手段として、米の調達のために先物取引に手をそめます。外国米を、藩領で収穫できる予定の大豆と交換するという危険な調達手法ですが、協力者の背信行為や手形の不首尾などで行き詰まり、外国人商人からの訴訟によって東京で裁判をうけるはめになります。
  彼の一途な献身の結果は、じつに不遇なものとなります。「藩は無関係」として、一身に罪を背負うかたちとなり、最後は訴訟継続中にかかった慢性肺炎によって死去します。入院・死去した終焉の場所は東京医学校医院(現在の東京大学病院)です。明治8年(1875)3月20日、享年40という若さでした。

故郷・出石での供養

  出石の実家である川崎家は代々、出石町東條にある臨済宗・願成寺が菩提寺でした。出石藩士たちの名簿「御侍帳」から川崎家の存在にたどり着いたあさくらさんたちは、さらに菩提寺の願成寺に残っていた「墓籍台帳」を手がかりに、かつて、尚之助の没年月日と全く一致する刻文をもつ墓石があったことをつきとめます。
  3名の戒名を連記した墓石の、「川光院清嵜静友居士」が尚之助の戒名にあたります。「川崎」という2文字が読み込まれた戒名です。今は別家の墓地区画になっているものの、願成寺墓地の中に、昭和40年代まではこの墓石そのものが存在していたようです。
  東京で不遇のうちに亡くなった川崎尚之助を、出石や彼本人と関わりある誰かが供養のために建てたのでしょうか。知られざる人物、数奇な運命に一途に立ち向かった男の存在と生きざまに、あらためて注目していきたいものです。
願成寺の墓石台帳
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川崎尚之助の年表

                     
  西暦   和暦     出来事   年齢  
  1836   天保7年   11   出石藩士川崎才兵衛の子として川崎尚(正)之助生まれる。   1  
  1841   天保12   8   父親が隠居。兄、恭助が足軽格に降格して家督相続する。   6  
  1844   天保15   8   15日、父才兵衛死去。恭助が才兵衛を襲名する。   9  
  1845   弘化02   11   山本八重生まれる。   10  
  1854   嘉永07       正之助、このころ江戸に出て蘭学を杉田成卿→大槻磐渓→大木忠益に学ぶ。
会津藩山本覚馬と大木塾で知り合う。
  19  
  1857   安政04   会津藩、江戸に蘭学所を設ける。
正之助、山本覚馬に請われて会津若松に赴き、山本家の居候となる。
  22  
  1859   安政06   6   会津藩、日新館に蘭学所を設ける。
  正之助、会津藩に雇われ、四口棒を賜る。   24  
  1860   万延01   蘭学所から砲術部門を分離、正之助は砲術部門へ。   25  
  正之助、大砲方頭取に就任。十三俵扶持を賜る。
  1862   文久02   8   会津藩主松平容保、京都守護職に就任。12月に京都へ。   27  
  1864   元治01   川崎才兵衛、足軽格より藩士格に復帰する。   29  
  4   京都より正之助を招聘したい旨、書翰が届く。
  10   京都より再度正之助を招聘したい旨、書翰が届く。
  1865   慶応01   正之助、会津藩士となる。名前も尚之助と改名。
  尚之助、山本八重と結婚する。   30  
  1866   慶応02   11   28日、出石藩が京都守衛に貢献したとして、川崎才兵衛が朝廷の副使として選ばれる。 31
  尚之助、米沢藩内藤新一郎を弟子に取る。
  1868   慶応04   1   鳥羽伏見戦争始まる。山本覚馬は行方不明、弟の三郎が戦死。   33  
  2   会津藩、兵制改革に着手。尚之助、砲術指導で活躍か?
  閏04   米沢藩、約40名を砲術修業として会津藩へ派遣し、この米沢藩士たちを山本家が世話する。
  8   23日、会津城下の戦争始まる。尚之助、八重、籠城する。
  八重、スペンサー銃で敵と戦う。
  25日、尚之助、豊岡砲台を担当する。
  八重、側女中として城内勤務となる。
  1868   明治01   9   14日、尚之助、小田山を砲撃する。
  17日、八重の父、山本権八が戦死。
  22日、会津藩降伏する。八重、三の丸に詩歌を遺す。
  23日、会津藩、降伏調印する。
  24日、尚之助、ほかの藩士とともに猪苗代の謹慎所へ移る。
  八重、小田付の避難所で生活する。
  1869   明治02   1   尚之助、ほかの会津藩士とともに東京へ連行される。   34  
  6   八重、内藤新一郎に四斤弾を献上する。
  12   29日、出石藩川崎才兵衛、隠居して揖作を称す。
  家督を長男の渉一に譲る。
  1870   明治03   10   尚之助、海路で斗南に行き、野辺地港に到着する。
  米座省三と函館に渡る。   35  
  閏10   尚之助、柴太一郎の後見で函館のデンマーク人、デュースと広東米の取引をする。
  12   八重たち家族、米沢の内藤新一郎の世話になる。
  12   19日、尚之助、米手形を持つブラキストンに手形の返還を迫る。
  12   20日、尚之助と共にいた米座省三、ブラキストンに借金して逃亡。
  12   21日、尚之助、米手形を取り戻すため、訴訟を起こす。
  1871   明治04   2   八重たちが寄留していることを内藤が米沢藩に報告する。   36  
  4   デュース、尚之助たちを契約違反として開拓使に訴える。
  7   12日、逃亡中の米座省三、東京で捕縛される。
  8   3日、八重たち家族、京都の山本覚馬の世話となるため米沢を出立。
  10   八重たち家族、京都に到着する。
  12   尚之助、手形をブラキストンより取り戻す。
  精算金をデュースに渡すが訴訟継続。
  八重、川崎家を廃家し、山本家の戸籍に復籍する。
  1872   明治05   4   20日、八重、兄覚馬の推薦で京都女紅場の出頭女として教鞭を執る。 37
  6   尚之助、デュースとの訴訟は斗南藩に関係なく自分の責任と供述する。
  8   尚之助、東京へ連行され、名越勝治邸で過す。
  9   八重、覚馬とともに東京へ。
  1873   明治06   12   名越勝治、地主のトラブルのため、尚之助の身元引受人を辞める。   38  
  根津親徳の采配で、川上啓蔵を無断で身元引受人とし、尚之助、鳥越の川村三吉宅で過す。
  1874   明治07   4   開拓使、尚之助を召喚する。
  川上啓蔵、無断で尚之助の身元引受人にされたことを知る。   39  
  5   加藤保次郎、尚之助の身元引受人となる。
  1875   明治08   2   5日、根津親徳、尚之助の身元引受人となる。   *40  
  2   7日、尚之助、重態に陥り、東京医学校病院に入院する。
  3   20日、尚之助、慢性肺炎で死亡する。
  7   八重、同志社設立のため休暇をとり、
  8月4日、兄覚馬とともに大阪へ。
  10   八重、新島襄と婚約する。
  11   18日、八重、女紅場を免職される。
  1876   明治09   1   3日、八重、新島襄と結婚する。
  12   28日、米座省三、柴太一郎、開拓使裁判所により懲役刑を受け、
  刑事訴訟が終結する。
  1878   明治11       川崎揖作、大徳寺の僧、宗雲を出石に呼ぶ。
  このころに尚之助の戒名を付したか?
  1887   明治21   1   8日、尚之助の兄川崎揖作死去。
  1890   明治23   1   23日、八重の再婚相手だった新島襄が死去。
  1891   明治24   4   7日、デュース死去。事実上民事訴訟が終結する。
  1896   明治29   12   25日、新島八重、平民女性初の勲七等宝冠章を受勲。
  1905   明治38   4   1日、新島八重、勲六等に陛進。
  1931   昭和07   6   14日、新島八重死去する。
 

表記は一部を除き、明治5年までが旧暦記載
*戸籍の記載は39年4月とあり、数え年は40歳となる

 

出典「川崎尚之助と八重」 著者:あさくらゆう